複雑より簡単 精度は高ければよいというものではない
よく、「詳しい分析をして見ないとその件ははっきりしない。」という人がいる。
あるいは、「その説明では簡単に見えるが、本当は複雑なので、それが完全にわ
からなければ判断できない。」という人もいる。
「詳しい分析」や、「完全な解明」が必要ならば、それはそれで、必要があるが、
このような発言は多くの場合、「今は、その提案は採用すべきでない。」とい
うことの遠まわしの表現であることが多い。つまり、決定を回避して責任をとり
たくないだけの話だ。
仮に、詳しい分析をして、簡単な話を、複雑にしても、結局「OK」しないだろう。
むしろ、詳細の分析をしてしまったあなたは、彼のサボタージュの共犯者になっ
てしまう。
「詳しい分析」や、「完全な解明」は、それ自体には行う理由はないものだ。
重要なことは、「提案」の採否を決定することだから。
つまり、本当は、採否を決定するのに必要な最低限の情報があればよい。
例えば、その「提案」を実行することによって、ある前提のもとの試算で、1億円
の収益が得られるとしよう。コストは、それに比して十分小さいとする。例えば
100万円だとする。
ここで、検討することは、前提は妥当か?という点と、1億円の確からしさだが、
これが、5千万円と1億円5千万円の間に落ち着くことがほぼ明らかなときに、
さらに「詳しい分析」を行って、「期待収益は、9千9百90万円」という結論
が得られるまで、判断を留保する必要があると考える人はいないだろう。
では、コストが5千万円であったらどうなるだろうか?これを判断するためには
収益率は最低どれくらい必要かという別の基準が必要となる。
コストの20%以上必要なのであれば、収益が6千万円以上かを判断できる程度の
再調査が必要となる。
詳しい分析は、コストもかかるし時間もかかる。結論をサポートするに十分な
情報があるときに、更なる調査を行うのは、無駄使い以外のなにものでもない。
重要なのは、判断の基準とそれを満たすだけの情報だ。
もちろん、判断の基準を明確にする努力を怠ってはいけないし、なぜそのような
基準とするのかは説明できなければならない。
すべては、結論である「提案」を理解してもらい、採否を判断してもらうために
ある。そのための必要十分な情報があるかが重要だ。


